ホーム フォーラム 光の勢力による地球革命と宇宙人 掲示板 B.ロバーツの体験した無我の世界

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    • #973 返信
      Nennezabutonさんとこのある方

       本日より、ナチュラルスピリット刊行のバーナデット・ロバーツ著立花ありみ訳「無我の体験」(原著1993年刊行、本訳書2014年刊行)をテキストとして、無我の体験とはいかなるものか?そして、この無我の体験をどのように人生に活かしていくのか?について書いて行きたいと思います。

       私は、自身が某ブログをやっている時にnennezabutonさんから色々とプレイベートで質問を受け、私の体験から、通常の人間が用いている「私1」という意識から「私2」次いで「私2」という意識を分離確立して「私1」を常時観察することが人間の煩悩から脱するためにいかに重要かをお伝えしてきました。

       本日は、ロバーツの記述から、私の言う「私1」、「私2」、「私3」を取り出してみたいと思います。このことはp.204,205に記載されています。

      抜粋
       「意識の世界では何かを見たり聞いたり触ったりできる“感覚”が”対象“となるのではなく、常に“自ら(主体)”が“対象になるのです。つまり、”自己“あるいは”主体“の正体とは、心が自らを対象として見ているものだということになります。そして、この”主体“が”対象“と一致した認識の構造が、意識の本質と言えるわけです。
       ”意識“の仕組みを“感覚”の仕組みと混同しないことは、極めて重要です。心の投影機能が、意識を内側に向けて自己意識を生み出すのに対し、感覚の仕組みは、単に外的な環境に感応しているに過ぎません。意識の仕組みの違いは、人間と動物の違いでもあります。
       そして問題は、私たちが意識の対象(自己)を、感覚の対象(見たり聞いたり触ったりできる、外的な環境)とごっちゃにしたときに生じるのです。それは、あくまでも外側の感覚情報であって、心そのものである”主体“とは別物なのです。」

       ここで、ロバーツが”外的環境に感応しているだけの“感覚”を動物的意識だ“と述べていますが、これが私が言う「私1」の正体です。

       そして、ロバーツが”心の投影機能が意識を内側に向けて自己意識を生み出すこの意識が人間の意識だ“と述べていますが、これが私の言う「私2」の正体です。

       「私2」のレベルでは、「私2」という“主体”と「私1」という心の現象という“対象”との間に自他の壁が横たわっています。

       ロバーツは”主体“が”対象“と一致した認識の構造が意識の本質だ”と述べている、この「私1」と「私2」あるいは「外的対象」との相互作用を一体的なものとして観察している“本質的意識”こそ、私の言う「私3」なのです。

       一連のマイヤース通信「永遠の大道」や「個的存在の彼方」で述べられている“類魂”や一なるものの法則でラーが語っている“社会記憶複合体”と呼ばれる、自他の壁が完全に崩壊した時に体感することになる、個人的自我を超えた、一にして多、多にして一の別次元の自我の存在に触れるには、「私3」の安定的な確立の後に起きることになる、“無我の体験”を経なければならないのです。

    • #983 返信
      光の預言天使E.T.
      キーマスター

      ある方さん、解説ありがとうございます。お願いします。

    • #989 返信
      nennezabutonさんとこのある方

       本日は私たちが慣れ親しんでいる自我が活動を停止し、無我を経験する状況を前出の「無我の経験」p.205,206から抜粋します。

      抜粋
       「心の機能が働いている限り、私たちは自己と感覚の対象を完全に区別することはできません。その機能が永遠に停止した時に、初めて区別は自動的になし、二つの仕組み(意識と感覚)の違いが明確になるのです。
       心はもう、内面を見ることも、自ら投影することもできなかったので、私はあらゆる力を振り絞って自己意識を保とうとしましたが、心は絶えず無我の沈黙の中に溶解してしまいました。自己は主体としてだけでなく、対象としても消滅するほかはありませんでした。」

       この状態は大変説明し難いのですが、私の経験を踏まえながら自分の言葉で表現するならば、自我が完全になくなったと言うより、自我の活動のうちの投影活動が停止してしまったと表現したいですね。
       五感の受信機能と単純な反射活動はあるのです。
       まぶしいとか、甘いとか、冷たいとか、痛いとかはあるのです。
       しかし、そこから発生してくる快/不快であるとかうれしいとか、悲しいとか、そういう感情的解釈が全く発生しなくなってしまいました。
       あと、欲望が全く発生しなくなりました。
       全然辛くはないのです。不安や怒りといったネガティブな感情は発生しないので。
       心の波風が全く立たないのです。波が一切起きていない鏡面のような水面のようなものです。

       しかし、やがて新たな変化が訪れます。
       鏡面のような水面だと感じていた心の水面に、今まで気づかなかったさざ波が立っていることに、徐々に気づくようになるのです。

       このことについては、次回にお話することになるでしょう。

      • #993 返信
        光の預言天使E.T.
        キーマスター

        難しいですが、一種の悟りの境地と言えるのでしょうね。

    • #1002 返信
      Nennezabutonさんとこのある方

       本日は、ロバーツさんが自我を失ってどのような気づきを得たかについて語っていますので、そのことについて書きたいと思います。この気づきも昨日お話しした心のさざ波の働きの結果なのですが、この心のさざ波については後日お話ししたいと思います。

       「無我の体験」のp.208からの抜粋です。

      抜粋
       「こうした体験を経て、言葉にできない私的なエネルギーや生の感覚がいかにして存在の核となり、その強靭な軸を中心として、感情の構造が形成されていくのかがわかりました。人の命は「種」のようなもので、存在のあらゆる側面を余すことなく表現するために発芽して、どんどん枝葉を伸ばしていきます。そして自己をなくすことは、この種を失うことに等しく、すべての枝葉、つまり感情構造を網羅するあらゆる生とエネルギーの感覚、自分が存在しているという根っこの感覚が失われてしまうことを意味しているのです。」

       ロバーツさんは自我を失うまでは自我というものがいかなるものか分かっていなかったが、いざ、失ってみると、それがいかなるものかを正確に理解できて、それがいかに大切なものかが分かったということを述べています。

       私もこのロバーツさんと同じ自我を失う経験をして、長い間戸惑っていましったが、ある時二つの映像が浮かんできたのです。

       一つ目は、ラオスで実際に目にした光景です。托鉢僧が女性から供物を受け取っている姿を目にして、その僧が女性のことを汚物でも見ているような軽蔑の目で見ているのを感じて嫌な思いを抱いているのを思い出したのです。

       この僧と女性との間には非常に隔たった距離がある。極度に分断されている。聖なるものと俗なるものとの間に大きな隔たりが出来てしまっている。

       私もこの状態だと思いました。たしかに私は私2、3の側にあって私1とは分断されているから、私1の属性である自己保存能、死への恐怖から来る様々な煩悩の影響下にはない。
       しかし、私1とは繋がっていないから一般社会から遊離してしまって、一般社会でのまともな活動が出来ない。欲望がないから何も社会に対して行使出来ない。
       そういうものを感じました。

       もう一つのイメージは、聖書で読んだイエス・キリストが捕縛される前に弟子たち全員の足を洗った場面でした。
       この時代のユダヤ人の風習として、他人の足を洗うという行為は下人のすることであって、師匠のイエス・キリストがよりによって弟子の足を洗うなんてことは当時の常識からすればとんでもないことだったのです。

       私は私1が私2、3に見捨てられて、悲しみの叫び声を上げているのだと感じました。私は心のどこかで、ラオスの修行僧のように俗なるものを軽蔑して憎んでいたのだと思いました。
       私は今は、この世に生を受けている。ということは、神は私1とともに私2、3が協同して働くことを望んでおられる。だから、自分はもう一度私1と繋がり直さなければならないと思いました。
       私はキリストに自分の私2、3を、弟子たちに私1を見ていたのです。

       それで、私1と繋がり直したところ、生きているという感覚が戻りました。セピア色にしか見えなかった周囲の景色も色鮮やかさを取り戻しました。生き生きとした実感が戻ってきました。私1と繋がり直して正解だと感じました。

       でも、これは元の状態に戻ったのではないことにもやがて気づきました。ロバーツ
      さんも私も今までとは全く違う生を生きるようになったのです。
       このことについては後日お話ししたいと思います。

      • #1020 返信
        光の預言天使E.T.
        キーマスター

        ありがとうございます。非常に興味深い話です。続きが気になります。

    • #1083 返信
      Nennezabutonさんとこのある方

      ブッダは色界の瞑想と非色界の瞑想を弟子たちに伝えました。
      色界の瞑想のうち、第四禅という状態が最高の境地になります。
      この境地では思考(過去の経験に基づいた解釈作用)、感情が完全に停止しています。
      そこには苦しみはありませんが、喜びもありません。
      なぜなら、この境地に達した人は、喜びも苦しみの原因であることを、心の内面の観察により完全に理解しているからです。
      第四禅の境地にいかなる状況にあろうと自由に入ることのできる人を阿羅漢と言います。
      彼らは自分の心を自由自在に操ることができます。
      阿羅漢は悟りの一歩手前まで来た人たちのことです。

      本日は、ベルナデット・ロバーツさんが自身の著作「無我の体験」の中で第四禅に至るための心の内面の観察の仕方を具体的に記述していますので、その部分を抜粋したいと思います。p.215-216にその記載があります。

      抜粋
       「感情の構造は、一つの相対的な連続体を形成しているので、私はそれを“シーソー”に見立てています。シーソーの先端部は、それぞれ愛着と憎悪の極を表し、支点に近づくほど、より微細な無意識的な感情の動きを表しています。その支点が“認識の構造”だとすると、統合のプロセスはこの二つのバランスを取ることであり、究極のゴールは、相反する極に引かれることなく均等を保つことにほかなりません。
       シーソーの中心部にある静寂や平安、不動性は聖なる“静寂点”へと繋がる入り口になるので、黙想者はその部分に注目するのです。
       私たちは感情を静めることで静寂点に近づくことができます。黙想者が“無欲”を重視するのは、欲望が聖なる静寂点に近づく妨げになると分かっているからです。
       静寂点とは、神を経験できる私たちの内面にある非局在的な“スポット”のことです。」

       ブッダは喜びはおろか平安まで断捨離しないと第四禅には至れないと述べています。一切皆苦だとも述べています。喜びや平安さえ苦/ドゥッカだと述べているのですね。
       どういうことかというと、心の動きを詳細に観察していると、喜びや平安は決してシーソーの支点にあるものではないことが分かるのですね。
       だから、喜びや平安があるうちはシーソーが動くのです。
       シーソーが動くということは、喜びや平安はブッダが“諸行無常”と喝破した“行”の一つなのです。
       それで、この喜びや平安を失いたくないという“恐怖”“欲望”が起きるのですね。ますます、シーソーが激しく動くことになります。こうして、感情の動きが収拾つかなくなって人々の心は揺れ動いて落ち着くということがないのです。
       こうして人々はこの心の動揺が不安でたまらなくて、心の動揺から目を逸らそうと、宗教やヒーリンググッズや異星人や娯楽やゲームに依存して執着してしまうのです。

       一方で、阿羅漢たちは喜びや平安さえ心のシーソーを動かして苦/ドゥッカを生み出すことを見切って知っているので、常に心の不動点、シーソーの支点に自分の心を置いておくことをするのです。シーソーが動いてると生命エネルギーの無駄使いになることを良く理解しているのです。

       このような阿羅漢は普通の人の目から見ると感情が全くなくて非常に冷たい人に見えるのですね。何を考えているのか全く分からない異星人のように見えるようです。
       ですから、阿羅漢の中には、他の人を会う時には、わざと心のシーソーを動かして普通の人のふりをする人もいます。

       興味を持たれた方は、自分の心の不動点を探してみてください。無理やり感情や思考を止めようとしても止まりません。無理やり押さえ込もうとせずに、ひたすら心の動きを観察するのです。そうすれば、ある時、心の不動点を体感する時がやってきます。

      • #1084 返信
        光の預言天使E.T.
        キーマスター

        ありがとうございます。非常に面白い話です。
        実際、阿羅漢者になると現世では生きにくいそうです。
        なぜかというと支配層の支配システムが人間を縛り付けるものだからですね。
        悟って、俗世を捨てるにも、森や山に住んだら、土地の所有者がいて不法侵入になりますし、
        税金の支払いとか、戸籍とか、いろいろ問題があるのです。
        だから現世で悟っても本人には都合が悪くなるだけで、まず支配層を倒す必要があるわけです。
        支配層が倒されて高次元宇宙人が降りてきて統治すれば、悟りを追求しやすい世界になりますね。

    • #1113 返信
      Nennezabutonさんとこのある方

      私はnennezabutonさんのブログで夏頃から連載する予定の記事の準備のために一なるものの法則の英語原文を読み進めているところです。
      この中でラーは、service to others/他者への奉仕/ポジティブ指向性の啓蒙普及を行うのがconfederation/同盟であり、service to self/自己への奉仕/ネガティブ指向性の啓蒙普及を行うのがオリオングループだと述べています。

      地上の人間というのは、コブラはインプラントという言葉で表現していますが、service to selfに向かうような強力な暗示をかけられています。
      ブッダの言う第四禅から非色界の各境地に至る段階やベルナデット・ロバーツの言う無我の体験というのは、この暗示を機能停止させるゼロポイント場になっています。
      このゼロポイント場では、初めて本当の意味の自由意志でservice to selfを極めるのか三次元に数多ある偽物の偽善的service to othersではなく、本物のservice to othersに向かうのかの選択をすることになります。

      実はこの世の中にはこのゼロポイント場に至るまでのメソッドを伝えたものは多数あって、このゼロポイント場に到達することを端折って偽物のservice to othersを普及するものも多数あるのですが、ゼロポイント場からいかに本物のservice to othersに至るのかを問うたものがほとんどないのです。

      ですから組み合わせるしかないのですね。
      小乗仏教の悟りの道を極めてから法華経を読んで菩薩道を極める。
      小乗仏教の悟りの道を極めてから聖書を読んで菩薩道を極める。
      などなど。
      本当に組み合わせるしかないのです。
      組み合わせないとオリオングループの罠にはまるようになっているのです。

      小乗仏教の悟りの道だけを極めている人は、俗世間では生きられないのは本当のことです。
      組み合わせて学んだ人だけが、俗世間で阿羅漢の状態を保つことができます。

      私が出会ったもので悟りの道から菩薩道までの全体系を余すところなく伝えているものは禅の世界で伝わっている十牛図だけです。
      https://www.google.com/search?q=%E5%8D%81%E7%89%9B%E5%9B%B3&rlz=1C9BKJA_enJP768JP768&hl=ja&prmd=ivn&sxsrf=ALeKk034lZOue2Y9EXZK1Vvo2hFDVyDiTQ:1585427341099&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=2ahUKEwjnwO6Lgb7oAhUSfd4KHeL8CXAQ_AUoAXoECA4QAQ&biw=1024&bih=659&dpr=2#imgrc=Ob12rAlTwbyG_M

      もしかしたら、一なるものの法則もセッション106まで読み終えたら十牛図が伝えていることを網羅しているのではないかと思い、読み進めているところなのです。

      本日は寄り道となりました。

      • #1114 返信
        光の預言天使E.T.
        キーマスター

        ありがとうございます。ある方さんの連載記事楽しみです。

    • #1153 返信
      Nennezabutonさんとこのある方

       ベルナデット・ロバーツさんは内面観察によって神との出会いの場であるゼロポイント場である静寂点に到達するためのコツをさらに詳しく伝えていますので、本日はその部分を紹介したいと思います。
       「無我の体験」のp.216-217からの抜粋です。

      抜粋
       「静寂点は、連続体上のあらゆる活動を鎮め、平安、沈黙、不動の境地へと導きます。そして“それ”の存在の確証の内に、自らも休息するのです。
       黙想を始めたばかりのころの私は、“それ”に接触すると感激のあまりに極端に反応し、失敗を繰り返すという憂き目にあいました。あまりに過剰に反応して、神を覆い隠し、消し去ってしまったのです。心を平静に保たねばならないと知りながらも、感情を抑えることができなかったのです。“それ”に触れたときは、ただあるがままに放っておくことです。
       神が常に私たちに触れていることを実感したときから、少しずつ私も平静を保つことができるようになりました。
       この地点に来ると意志は神に従い、隣人の善のために働くようになります。」

       本当に結果を求めに行って焦るとだめなんですね。静寂点に至りたい。平安を得たい。苦しみから脱したい。神と繋がりたい。ハイアーセルフと繋がりたい。と、欲望を発動させると全くの逆効果なのです。
       全く期待することなくひたすら心を動かさずに待ち続けるのがコツなのです。
       静寂点に安住するには、神に出会うには、ハイアーセルフと繋がるには、無欲である必要があるのです。
       最初はたまに一瞬繋がるだけです。
       でも、それを何回か経験すると安心するのですね。
       すると、いちいち繋がりを求めなくなるので、どんどん事態が安定化していって、繋がりやすくなって行きます。
       そうすると、自分から全く求めに行かなくなります。
       必要な時は向こうから勝手に来るものなのです。
       繋がり始めて最初の頃は、「えーっ。こんなことやれって言うんですか?」というような、自分が絶対にやりたくないことをやらされます。
       でも、これは自分の執着を破壊して解放されるために必要な作業なのですね。後でそのことがはっきり分かります。自分の枠がどんどん広がって行って、どんどん自由になって行きます。
       こういう訓練をハイアーセルフに積まされて行くと、誰かに結構大変なこと頼まれても、気軽に請け負えるようになるのです。無償の愛が身についてくるのです。見返りを求めることなく他人に奉仕できるようになるのです。

       ロバーツさんも最後にこう語っていましたよね。
       「この地点に来ると意志は神に従い、隣人の善のために働くようになります。」
       最後は本当にこのようになります。

       ゼロポイントに到達して生まれ変わるとそこには不幸、不安、不平不満、怒り、憎しみはもう近づくことはありません。幸福、平安、満足、喜び、愛だけがある楽園に住まうようになるのです。エデンの園に復帰できるのです。
       これは嘘ではありません。本当の話です。ゼロポイントにいる限りは。
       このような状態を維持したければ、常に心の内面を見張っていてゼロポイントから外れないようにしていることです。
       油断しているとゼロポイントから外れますからご注意を・・・。

    • #1190 返信
      Nennezabutonさんとこのある方

      本日は、ベルナデット・ロバーツさんが「私」を超越した無我の世界をさらに超越した時空を超越した無時空の境地に至るところを解説したいと思います。

      抜粋
       「こうして何年間も日常生活を送ったのち、どんなことがあっても最初のとっさの反応以上は起こさずに静寂点に戻る方法を、いつの間にか身につけていたことがわかりました。
       しかし“なすがまま”の姿勢で、すべてをもっぱらありのままに観察できるようになったとき、ある興味深いことを発見したのです。
       自分の中で激化する戦闘にまったく巻き込まれずに静かに観察するというユニークな体験をしました。
       しばらくすると、この戦闘が自己を維持しようとする力と自己を滅ぼそうとする力との争いであることがわかりました。
       そして戦いの終焉とともに、不思議とあの最初のとっさの反応も消滅してしまったのです。しかも私は、いつでも静寂点に一致できるようになりました。
       感情の連続体も、自己もなくなり、ついにはそれらに関わる静寂点さえも消えてしまったのです。
       感情の構造は、あらゆる精神病の原因となるだけでなく、すべての人間の苦悩の種となるものです。というのも、どんな病も感情の構造がなければ精神的苦痛に発展しないからです。恐れや不安感を感じなければ、そもそも精神的に煩わされることはないのです。
       感情の構造のない生を言葉にするのは非常に困難ですが、あえて言うならば、それは、ただ生きる、という生き方で一切の思考をはさみません。言い換えれば、“今この瞬間”に起こるあらゆる出来事に100%集中するというダイナミックで力強い生き方です。それは、敏感で、反応的で、完全に健常な肉体器官を維持したまま、目覚めの状態が継続している状態です。こうして完全に自己のない状態に慣れると、もう何かを欲したり、不足に思ったりすることはありません。」

      第一のポイントはここだと思います。
      「この戦闘が自己を維持しようとする力と自己を滅ぼそうとする力との争いであることがわかりました。」
      古今東西の聖賢が看破した根本神/ソースの正体は絶対無です。いかなる現象も生じていない世界。時間も空間も、光も闇も存在する前の始原世界。
      これが究極の有り様なのですから、自己を維持しようとする力、一なるものの法則のラーが言う“歪み/distortion”が発生すると、それを無にしようとする力、自己を滅ぼそうとする力が発生するのです。この相対立する二つの力の作用反作用として、感情のシーソーが動いて、その動きを止めようとする執着が起きて苦/ドゥッカが発生するのです。

      だから、ロバーツさんはシーソーの支点である静寂点を探し出してそこに安住することを覚えた。感情が発生しない無我の境地を得たのです。ここにいるとブッダの言うように全てが無常に見えます。決して永遠などないように見えます。

      でも、この状態ではまだ気づいていないことがあるのですね。自分がシーソーの支点に固定されている。そこに執着しているということに気付いていないのです。

      向こう岸の見えない見渡す限り流れの大河を思い浮かべてみましょう。自分は川底に足をつけて流れを見ています。全て流れているように見えますよね?

      これがブッダの言う諸行無常の境地です。

      さあ、今度は勇気を振り絞って足を川底から離して流されてみましょう。最後の執着を手放すのです。あなた自身も流れています。

      さあ、何が見えますか?

      あなたも流れているから、そこには流れはありません。全て“常”です。“無常”はありません。

      ロバーツさんはこう言う表現をしています。

      「“今この瞬間”に起こるあらゆる出来事に100%集中するというダイナミックで力強い生き方です。それは、敏感で、反応的で、完全に健常な肉体器官を維持したまま、目覚めの状態が継続している状態です。こうして完全に自己のない状態に慣れると、もう何かを欲したり、不足に思ったりすることはありません。」

      私たちは時空という概念の中に囚われて生きています。過去A→今B→未来Cという時空間と呼ばれるマトリックス=幻想の中で生きているのです。こういうマクロな捉え方をしているからそこには上りもあれば下りもあって、幸福もあれば不幸もあって、高次元もあれば低次元もあって、光もあれば闇もある世界となってしまうのですね。

      ロバーツさんの今この瞬間を生きるという世界は、今しかない生き方です。数学的な微分点でのみ生きているのですね。微分点だからそこには時間も空間もないのです。“ただ存在している”それだけです。微分点だからこそあらゆる可能性が開けているのですね。本当の自由意志が行使できるのはこの微分点に生きる生き方をしている時だけなのです。

      時空間に囚われた過去A→今B→未来Cという世界に囚われている限り、私たちには未来Cに行く道しか選択の余地がないのであり、未来D、未来E、未来F、・・・といったあらゆる可能性に旅立つ自由を自ら奪ってしまっているのです。

      この微分点に生きる世界が、一なるものの法則の社会記憶複合体ラーが生きている六次元の世界なのです。

      遥か彼方の遠い世界ではないのです。ちょっと努力すればすぐに行ける世界です。

      アセンションなんてとっても簡単なのですよ!

    • #1199 返信
      Nennezabutonさんとこのある方

      昨日は過去A→今B→未来Cというタイムラインに乗った自我α(アルファ)と今この瞬間だけに生きている微分点としての自我Ω(オメガ)のお話をさせていただきました。
      ロバーツさんは盛んに自我がなくなってしまった自分のことを語っていますが、この自我がなくなった状態というのは自我αがなくなった状態なのですね。
      この自我αがなくなると今までとは全く違う自我Ωが活動しだします。

      本日はロバーツさんの言葉を抜粋しながら、過去A→今B→未来Cというタイムラインに乗った自我αがどのようなものかについてお話ししたいと思います。

      「無我の体験」p.227-229から抜粋します。

      抜粋
      「とある信仰心の篤い友人が、私の手記を返す際に「旅のあとにあなたがどう変わったのかを知りたいのです。どんな効果があったのですか?今、どんなふうに違っているのでしょうか?」と尋ねてきました。自分では、もう十分に記録の中で書いたつもりだったので、この質問を受けたときには正直言って驚いてしまいました。
      結局、その友人が聖職にあることから、私は彼がごく一般的なキリスト教的な準拠枠の「木はそれぞれ、その結ぶ実によってわかる」のことを言っているのではないかと判断しました。すると質問は「あなたはより善い人、より慈善的で徳の高いクリスチャンになったのですか?」ということになります。その問いに対して「いいえ」と答えるのはとんでもないように聞こえるでしょうが、それが正直な答えです。
      実際に美徳を実践する機会も発生しないので、以前よりもそうした行為は減少します。けれどもそれは、善がなくなったということではなく、美徳を実践することがなくなっただけなのです。端的に言えば、美徳や悪徳を実践する活力源となっていた意志がなくなってしまったのです。美徳の実践には、ある種の肯定的な「力」や「意志力」が必要ですが、意志がなければいずれの力も失うのです。」

      ここのお話に出てくる聖職者さんは、過去に聖書を勉強しているわけですね。そこにはキリストの教えが書かれています。こういうのは善くてこういうのはダメですよ。っていうのが書かれているわけです。
      これがロバーツさんの言っている美徳と悪徳です。
      これは私のいうところの過去Aが形成されたということです。
      で、今Bの自我αと過去Aを比べてみると今の自我αはここは善いがここはダメだという自己評価、自己価値観が生まれるのですね。
      そうすると、未来の自我αはこうあらねばならないという限定的な未来Cが自動的に発生してしまうのです。
      そうすると、過去A→今B→未来Cのタイムラインに自我αが乗っていると自我αが感じると喜びや安心感を感じるし、外れていると感じると怒りや不安を感じることになるのですね。
      過去A→今B→未来Cのタイムラインに乗るような外的援助があったと感じるとそれは神の恵み、守護天使の導きだと感じるようになりますし、外的妨害があったと感じるとそれは悪魔の所業になってしまうのです。

      過去と今を直線で繋げちゃうと自ずと過去→今→未来の一本のタイムラインが決まってしまって、自分の人生はそのたった一本のタイムラインに乗ってるか外れているかの極めて限定された世界に閉じ込められてしまうのです。

      ロバーツさんの場合は、そういうタイムラインに限定されていない自我αのない自我Ωの状態なので、自我α限定の美徳悪徳から自由であってこういうものは心の中に生まれてこないし、自我α限定の意志も生まれてこないのです。

      今この瞬間の微分点に生きるようになった自我Ωは、最初は「自分は何もない。」と感じて究極の虚無感に沈む「暗夜」を経験するのですね。今まで慣れ切っていたタイムラインに乗る人生が無くなっちゃったのですから無理もないことです。

      しかし、やがてこの自我Ωは重大な気づきを得ることになります。
      次回はこのことについてお話しましょう。
      とか言っていますが、保証の限りではありません。
      だって、自我Ωにはタイムラインがないので、将来どうなるかなんてその時になってみないと分からないのですから・・・
      お後が宜しいようで・・・

      • #1202 返信
        光の預言天使E.T.
        キーマスター

        ありがとうございます。ちょっと実感湧かないですが、無我とはそういうものなのですね。

    • #1220 返信
      Nennezabutonさんとこのある方

      昨日は過去A→今B→未来Cというタイムラインに沿った生き方とタイムラインを持たない微分点に生きる生き方のお話をさせていただきましたが、本日は、今という時代にはどちらが求められているのかというお話をしたいと思います。

      私はnennezabutonさんのブログで一なるものの法則の解説記事を連載しようと計画していて、英語原文で全セッションを読み進めているところです。セッション41まで要点を書き留めながら読み終えたところです。

      一なるものの法則には、次元の話もされていて、現在の地球は、地球自体は四次元移行を果たしていて、人類が三次元から四次元に移行する段階にあると書かれています。

      ここでは、光子が一次元の存在、増殖活動を行う生物/動植物が二次元の存在、自己意識を保有するに至った人類が三次元の存在、利他性/service to otherを指向するはっきりとした極性/方向性/polarityを持った存在がポジティブな四次元の存在、利己性/service to selfを指向するはっきりとした極性/方向性/polarityを持った存在がネガティブな四次元の存在だとされています。

      で、この三次元の人類は今、ポジティブな四次元への進化に向かうのかネガティブな四次元の進化に向かうのかの岐路に立っていて、ポジティブ指向の同盟とネガティブ指向のオリオングループが双方で人類を自分たちの味方に引き入れるべく表に裏に活動しているというのが一なるものの法則で語られているのです。

      ですから、今の地球の時代はとにかくとても太いポジティブ指向性のタイムラインをしっかりと形成することが最も大事なことなのです。

      こういう情勢分析をしてみると、今必要とされる人材は、ポジティブな時代を指向する過去A→今B→未来Cの極太のタイムラインをしっかりと描いて保持できる人材であることが分かります。

      この掲示板の管理人のETさんはそういう極太のポジティブタイムラインを長年作ってきた人なのですね。今の時代が求めている人です。
      私のような微分点人間は後々の時代には必要となってくるでしょうが、今はあまり必要ではないでしょう。私のような人間は、今の時代にあってはETさんのような人間をサポートする側に回るべきなのでしょうね。

      私は聖書は何回も通読していて、ヤハウェの預言者というものは自分がヤハウェの預言者であると公言しなければならず、世間からはキチガイ扱いされて嘲笑されるものだということを理解しているので、ETさんがあるネット環境でキチガイだ糖質だと罵詈雑言を浴びせられていても気にはしないのです。

      私はnennezabutonさんのご尽力でETさんと非公開の場でお話する機会を得ましたが、本来の姿はETさんが表の活動で見せる姿とはかなり違うということは申し上げておきたいと思います。

      本日はちょっと寄り道させていただきました。

      • #1223 返信
        光の預言天使E.T.
        キーマスター

        解説ありがとうございます。「一なるものの法則」は非常に興味深い話題です。
        ある方さんの連載記事期待しています。
        そして、私を評価していただきありがとうございます。
        今回の世界同時集団瞑想の成功でイベントが早まることを祈ります。

    • #1221 返信
      Nennezabutonさんとこのある方

      補足ですが、ヤハウェが同盟の一員であることは一なるものの法則のメッセンジャーであるラーも認めていて、そのように言及しています。

    • #1244 返信
      Nennezabutonさんとこのある方

      ベルナデット・ロバーツさんの「無我の体験」を読み返してみましたが、ロバーツさんが書いているのは、私が投稿して紹介した以上のことは書いていません。
      これから書くことは私自身の体験によるものです。
      私が明瞭に“私”=“自我α”がある過去A→今B→未来Cというタイムラインに沿った生き方から“私”がない=“自我Ω”として生きるタイムラインのない微分点にただある生き方にシフトしてしまってどのような変化があったかを書いてみたいと思います。

      自我Ωになってみても身体は確かに存在します。
      身体は観察の結果犬のようなものだと理解しました。
      自我αのままだとこの身体に支配されて生きていましたね。
      身体の発するあらゆる欲望に引きずられて生きるので、安らかになるということはないのです。
      飲み食いしたいと身体が欲すればそうせざるを得ず、エッチしたいと身体が欲すればそうせざるを得ず、他人と競争して勝ちたいと思えばそうせざるを得なかったのです。
      しかも、自我αの状態での身体というのはわがまま放題でその欲望に際限というものがありません。永遠に常に欲望を抱き続けます。
      この状態ですと必ず他人の利害と衝突して他人の自由意志を侵害して他人を支配したり、他人を搾取したりすることになりますね。
      しかし、自我Ωになってみると身体は大人しくなります。
      飼い慣らされた犬のようになります。
      食べたい飲みたい散歩したいといった欲望はありますが、それを適度に満足させてやれば満足して寝てしまいます。
      この状態ですと、他人に一切迷惑をかけずに身体を満足させて大人しくさせることができます。

      また、自我Ωはこの身体からエネルギーを受け取って活動するものであることも理解しました。
      身体は強力な発電所になっていて、自我Ωはこの発電所からエネルギー供給を受けないと活動できないのです。
      私の経験からするとブッダのいう悟りという状態は自我Ωが身体との関係から切れてしまった状態だと思いますね。
      身体に支配されていないのは事実です。
      だから煩悩は生まれません。
      しかし、身体に繋がっていないので、エネルギーがありません。
      よって、欲望も起こりません。
      何もできません。
      出家してお寺で何もせずに瞑想するくらいしかできません。

      でも、自我Ωが身体との関わり方を理解した上で身体を再接続すると、身体のエネルギーを活用できるのですね。
      しかも、犬のように飼い慣らしているので、身体に支配されることもありません。
      犬は必要なエサと水を与えて、十分散歩させて犬の欲望を満たしてやりさえすれば大人しく昼寝してくれるのです。

      で、この身体のエネルギーを使ってすることといえば、降りてくるインスピレーションが命ずることを行うこと、他人や他の生物から要求されるリクエストに答えてあげるくらいのことしかしません。
      他者へのサービスに終始しています。
      でも、これが素直に楽しいのですね。
      自我αの時代は顔では笑っていても、「なんで自分がこんなことをしなければならないのだ?」と常に自分が損をしている気分でしたが、今は全然違うのです。
      奉仕が純粋に楽しいのです。
      一なるものの法則のラーが言っている”service to self”とservice to others”の違いがよく分かりますね。
      身体も自我Ωにとっては”others”のうちの一つなので、自我Ωは喜んで”service”できるのです。
      でも、奴隷として奉仕するのではなく主人としてサービスしているのです。
      ここか自我αと自我Ωの大きな違いです。

      自我Ωはタイムラインを持たないので、今ここの状況に応じて臨機応変に対応できます。
      今ここの状況で他者から要求されたことに即応できるのですね。
      他者のタイムラインに簡単に乗れるのです。
      でも、他者のほとんどは自我αなので、自分の自我Ωがある人のタイムラインに乗ると別の人のタイムラインの邪魔になってしまうということは起こります。

      ですから、地球人全員が自我αから自我Ωにシフトを完了しなければ、地球上から対立というものはなくなりません。
      ラーの言う社会記憶複合体というものには、自我αが地球に存在する限りシフトできないのです。
      地球人が六次元の社会記憶複合体にシフトするのは、地球人全員が自我αから自我Ωへのシフトを完了した時になります。

      これにて、このスレッドは終了です。

      • #1246 返信
        光の預言天使E.T.
        キーマスター

        解説ありがとうございます。
        ある方さんの説明は具体的で難しい悟りをわかりやすく説明しています。
        最終目標は肉体からの解放といった感じですかね。
        私も肉体が邪魔だと思うことがあります。
        アセンションこそが悲願ですね。
        今まで無我について解説していただきありがとうございました。

11件の返信スレッドを表示中
返信先: B.ロバーツの体験した無我の世界
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