完成記事 アラン・カルデックの「霊との対話」天国と地獄 死後の魂の在り方を示す法則集 全三十三条
皆様おはようございます!光の預言天使E.T.です!
今回はテレグラムで書いた「アラン・カルデックの『霊との対話』天国と地獄」の内容の抜粋をまとめて公開します。
「アラン・カルデックの霊との対話 天国と地獄」の52ページで
「神は大変慈悲深い方であり、私がなし得たごくわずかな善を評価してくださり、私が多くの苦しみを諦念とともに受け入れていたことを、とても高く買ってくださいました」と天国に入れた霊が霊界通信でアラン・カルデックに言ってきているので、善行はできるならできる範囲でしたほうが良いと思いますね。ただ、善行というのも難しくて、霊位の低い悪意の悪人に善行してもほとんど徳や善行にはならないと思いますし、募金事業者も裏があって募金は搾取されてほぼ弱者救済に回らなかったりする場合があり、それが善行や徳になっているのかという話になりますので、そのあたり善行にも高度な哲学が必要です。分かりやすい単純な徳になる善行もありますが。あと私が学んできた限り昔からのスピリチュアリズム(心霊主義)は「単純な善悪二元論」であり、「勧善懲悪」です。流行りのスピリチュアルで二元論を一元に統一するとか言われていますが、私はよく理解できず違和感があり、あまりにも繰り返しネットで説かれるので広告マーケティング的戦略(悪のプロパガンダ)があったのではないかと推察されます。広告マーケティングはカバールの十八番(おはこ、得意技)です。
師匠は自コンテンツで『二元を一元にする予定であったが、救世主が説いたのはまたも二元論。予定は先に持ち越された』的な内容のことを書いていました。今のチャネリングメッセージを見る限りもそんな感じですね。善人は天国行き、悪人は地獄行きというような昔からのわかりやすいシンプル論です。「救世主が(またも二元論を)説いた」というのがポイントですね
「アラン・カルデックの霊との対話 天国と地獄」50~51ページ
シドゥニエ ―― 事故で溺死した霊媒
善人として生きたが、事故で亡くなった。生前は霊媒として知られていた。
――あなたの死の状況について教えて頂けますか?
「私は溺死しました」
――死んでからのことを教えて頂けませんか?
「自分を取り戻すために、だいぶ時間がかかりました。でも、神の恩寵と、助けに来てくれた仲間たちのおかげで、光に満たされていったのです。
期待以上の素晴らしさでした。いっさいが物質とは関係ないのです。すべてが、それまで眠っていた感覚を揺り起こします。目に見えず、手に触れられない世界です。
想像できますか?あまりにも素晴らしいために、あなた方の理解を絶しています。地上の言葉では説明不可能なのです。魂で感じないと分かりません。
目覚めたときは、とても幸福でした。『地上の人生とは悪夢でしかなかった』ということがよくわかりました。」
想像しうる限りのおぞましいもの、恐ろしいものに囲まれていたのに、目を覚ましてみれば、なんと、うっとりするようなエデンにいるわけです。
まわりには、かつて愛した人々がいます。そして、幸福に輝く顔で、あなたんほほえみかけてくれるのです。あたりには、心地よい香りが漂い、命の水で、渇ききった喉を潤すことができます。無限の空間の中に体は憩い、優しいそよ風が、甘い花の香りを運んできてくれます。生まれたばかりの赤ん坊が母親の愛に包まれるように、あなたは神の愛に包まれます。そして、いったい何が起こったのか、まだよくわかりません。
もちろん、ここで『愛』といっているのは、エゴイズムの不在のことです」
「アラン・カルデックの霊との対話 天国と地獄」316~332ページ
死後の魂の在り方を示す法則集 全三十三条
第一条
魂、ないし霊は、地上における肉体生活を通じて克服できなかった未熟さを、すべて、霊界においても引き受けなければならない。
第二条
完全な幸福は、心を完全に浄化したときに与えられる。未熟さが残っている限りは、苦悩から脱却することはできず、喜びは制限される。
逆に言えば、悟りが高まるほど、喜びが深まり、苦悩から自由になれるのである。
第三条
たった一つの欠点から不幸が生じるのではなく、また、たった一つの長所から喜びが生まれるのではない。
苦しみの総量は、欠点の総量に見合っており、喜びの総量は、長所の総量に見合っているのである。
例えば、十の欠点を持っている魂は、三つの欠点を持っている魂よりも苦しみが大きい。十の欠点のうち、半分を克服すれば、苦しみも、それだけ少なくなり、欠点をすべて克服すれば、苦しみはまったくなくなって、完全な幸福を得ることができる。
ちょうど、地上において、病気を何種類も持っている人間が、一種類しか病気を持っていない人よりも苦しむのと同じことである。
また、十の長所を持っている魂は、三つしか長所を持っていない魂よりも多くの喜びを得ることができる。
第四条
魂は、進歩の法則に基づき、意志に基づいて努力しさえすれば、みずからに欠けている長所を獲得し、すでに持っている欠点を取り去ることができる。
つまり、どの魂に対しても、未来は開かれているのである。
神は、みずからの子供を見放すことはない。魂が完成に近づけば近づくほど、より大きな幸福を与える。魂みずからがあげた成果を、すべて魂自身に還元するのである。
第五条
苦悩は未熟さから生じ、幸福は成熟から生まれるものである以上、魂は、どこに行こうとも、自分を処罰する原因をみずからの内に持つ。罰を与えるための特定の場所は必要ないのである。
したがって、地獄とは、魂が苦しんでいる、その場所にあると言える。
それは、天国が、幸福な魂がいるところに存在するというのと同じである。
第六条
人間がなす善、または悪は、みずからの内にある長所、または欠点の産物である。なし得る善を行わないというのは、したがって、未熟さの結果である。
未熟さが苦しみの原因である以上、霊は、地上において、なした悪によって苦しむだけでなく、なし得たにもかかわらず、なさなかった善によっても苦しむ(悔恨する)。
第七条
霊は、自分のなした悪がどのような結果を招いたかまで、つぶさに見せられるので、反省が進み、更生への意欲が高まらざるを得ない。
第八条
神の正義は無限である。すなわち、善と悪は、すべて厳正に評価される。
それがどんなに小さなものであれ、たった一つの悪しき行為、たった一つの悪しき思いでさえ、見逃されることはなく、それが、どんなにささやかなものであれ、たった一つのよき行為、たった一つのよき思いでさえ、評価されないことはない。
どのような邪悪な人間であれ、それが、どんなに些細なものであれ、善をなせば、それは必ず評価される。その瞬間こそ、向上への第一歩だからである。
第九条
あらゆる過ち、あらゆる悪は、債務となり、必ず、それを償わなければならない。
ある転生で、それが返済されなかった場合には、それは、次の転生に持ち越される。
そこでも償われなければ、さらに次の転生に持ち越される。
というのも、すべての転生は関連しているからである。
もし、今の転生で弁済した場合には、二度と支払う必要はない。
第十条
霊は、霊界においても、物質界においても、みずからの未熟さに由来する苦しみを引き受けなければならない。
物質界で引き受ける、あらゆる悲惨、あらゆる不幸は、われわれの未熟さの結果、すなわち、今世、あるいは、それ以前の転生でなした過ちの償いである。したがって、地上で経験している苦悩、不幸の性質を分析してみれば、自分が、今世、あるいは過去世でなした過ちの性質が分かるし、その過ちの原因となった自分の欠点の性質も分かるはずである。
第十一条
償いは、犯した過ちの重さと性質によって、それぞれ異なる。
したがって、同じ程度の重さの過ちであっても、それが犯された状況に応じて、軽減されたり加重されたりする。
第十二条
償いの種類はと期間に関しては、絶対的な、あるいは画一的な決まりがあるわけではない。
唯一の普遍的な決まりは、「それが、どのように評価されるかに応じて、過ちは罰を受け、善行は報いを受ける」ということである。
第十三条
罰の期間は、罰を受けている霊が、どれほど向上したかに応じて変化する。
前もって期間が限定された罰というものは存在しない。
霊が深く反省した上で向上を果たし、善の道に戻ったとき、神が、その罰に終止符を打つのである。
そのようにして、霊は常に自分の運命を自分で決めることができる。かたくなに悪にとどまりつづけることで、苦しみを長引かせることも可能だし、努力して善をなすことによって、苦しみを和らげ、その期間を短縮することも可能なのである。
期間があらかじめ決められいる刑罰は、次の二点で不都合をはらんでいる。
まず、すでに向上を果たした霊をそのまま罰し続ける可能性がある。次に、まだ悪から脱していない霊を解放する可能性がある。
神は正義であるから、悪を、それが存在しつづけるかぎりにおいて罰するのである。
言葉を換えて言えば、悪は、結局は心の問題であり、それ自体が苦しみの原因となるから、悪が存在するかぎり、苦しみもつづくというわけである。心の中の悪がなくなるに応じて、苦しみもまた軽くなる。
第十四条
罰の期間は向上のいかんにかかわっている。
したがって、罪を犯した霊が向上しないかぎり、苦しみは続く。それは、その霊にとっては永遠に続くように思われるだろう。
第十五条
反省しない霊は、苦しみがいつ終わるか、まったく分からないので、それが、あたかも永遠に続くかのように感じる。
そのために「永劫の刑罰を受けている」と思うのである。
第十六条
悔悟が向上への第一歩である。
しかし、それだけでは不十分であって、さらに、償いが必要となる。
悔悟と償いによって初めて、過ちと、その結果を消し去ることが可能となる。
悔悟によって希望が生まれ、再起への道が開かれるので、悔悟は償いの苦しさを和らげることになる。
しかし、償いを行って初めて、罪の原因が消滅し、したがって、その結果である罪も消えるのである。
第十七条
悔悟は、いつでも、どこでも生じ得る。悔悟が遅れれば、それだけ苦しみは長引く。
償いとは、肉体的、精神的な苦痛のことであり、犯された過ちに付随する結果である。
この世で始まることもあり、死んでから霊界で行われることもあり、あるいは、次の物質界への転生の際に行われることもある。過ちの痕跡が消滅するまで続くのである。
償いとは、自分の悪事の対象となった人に対して善を行うことである。
みずからの弱さ、あるいは、意志の欠如によって、今世中に過ちの償いができなかった者は、今後の転生において、みずからが選んだ条件のもとに、その人と出会うことになる。そして、自分が犯した悪に見合う善を、その人に対して行う必要があるのである。
あらゆる過ちが、直接、目に見える犠牲を引き起こすとは限らない。その場合には、次のようにすれば償いが完了する。
なすべきであったにもかかわらず、なさなかったことをなす。怠った、あるいは無視した義務を果たし、成し遂げられなかった使命を完了させる。
また、すでになした悪に見合う善を行う。つまり、傲慢であった者は謙虚になり、冷酷だった者は優しくなり、エゴイストだった者は思いやりを持ち、悪意に満ちていた者は善意の人となり、怠け者だった者は勤勉となり、無用だったものは有用な人間となり、放蕩を行った者は節度を取り戻し、悪しき見本だった者はよき見本となる。そういうことである。
こうすることによって、霊は、過去を有効に利用することができるのである。
第十八条
悪霊となった者は、幸福な世界から排除される。そうしないと、幸福な世界の調和を乱すからである。
彼らは下位の世界にとどまり、辛酸をなめつつ、償いを果たす。そうして、徐々に未熟さから脱していくのである。
その結果、優れた世界に移動していくことが可能となる。
第十九条
霊には、常に自由意志があるので、向上は、ときには遅く、また、いつまでも悪を改めない者もいる。何年も、何十年も、さらには何世紀も悪にとどまる者もいる。しかし、その空いばりにもかかわらず、最後には、苦しみに屈服し、神に反抗することをやめ、至上者の権能を認めざるを得なくなる。悔悟の最初の光が心に差しはじめるや、神は、それに応じて希望をかいま見させるのである。
いかなる霊といえども、「向上の可能性がいっさいない」という状況に追い込まれることはない。だが、みずからの自由意志を行使して、霊自身が、進んで、永遠に劣った状態に身を置き、あらゆる被造物に適用される、神聖なる進化の法則から逃れつづけることは、可能である。
第二十条
霊がどれほど未熟であろうと、邪悪であろうと、神が霊を見捨てることはない。どの霊にも守護霊が付いており、その心境の変化をうかがい、彼らの内に、よき想い、向上への欲求、犯してしまった悪を償おうとする気持ちを起こさせようとして、働きかけている。
一方では、指導霊が、決して強制することなく、本人には知られないかたちで働きかけている。霊は、外部からの何らかのかたちで強制されるのではなく、自分自身の意志で向上していかねばならないからである。自由意志を発揮して、よい方向にも悪い方向にも進めるが、「どちらかの方向に、強制的に追いやられて、引き返すことができなくなる」ということはない。
悪をなした場合、悪の道にとどまりつづける限り、その結果としての苦しみを引き受けつづけざるを得ない。
善に向かって一歩でも歩みを開始すれば、ただちに、その成果は表れはじめる。
第二十一条
各自が責任を負うのは、自分が犯した過ちに対してのみである。何人といえども、他者の罰を引き受けることはない。
ただし、みずからが悪の手本となり、他者にも悪を犯させた場合、また、悪の発生を防ぐことが可能であったにもかかわらず、それを行わなかった場合は別である。
また、自殺は常に罰される。
冷酷さによって他者を絶望に追いやり、その結果、自殺せしめた者は、自殺した者よりも重い罰を受ける。
第二十二条
罰の種類は無限にあるが、未熟な魂に対する罰は、ある程度、決まっている。ニュアンスの違いは多少あるが、結果的にはだいたい同じである。
霊的進化を怠り、物質に執着した者に対する罰は、まず、「魂と肉体の分離がなかなか行われない」ということである。死の苦しみが続き、霊界への移行が困難となる。その混乱の期間は、場合によっては、数ヶ月、数年に及ぶこともある。
それとは逆に、意識の浄化が進んでいる者は、生前からすでに霊的生活を送って物質から解放されているために、肉体と魂の分離は動揺もなく急速に行われ、霊界への穏やかな目覚めを得ることができる。この場合、混乱はほとんど見られない。
第二十三条
精神的に未熟な霊は、死んだにもかかわらず、自分がまだ生きていると思うことが多い。
この錯覚は、数年にわたって続くこともあり、そのあいだじゅう、彼は、地上生活における、あらゆる欲望、あらゆる苦悩、あらゆる不都合を感じつづける。
第二十四条
犯罪者は、自分の犯罪の犠牲者、犯罪が行われたときの様子を、繰り返し再現して見せられる。これは実につらいものである。
第二十五条
ある者たちは、漆黒の闇の中に放置される。ある者たちは、絶対的な孤立の中に置かれる。自分がどこにいて、この先どうなるのかが、まったく分からないのである。
最も重大な罪を犯した者たちは、最も厳しい拷問を経験するが、いつ終わるか分からないだけに、それは本当に耐えがたいものとなる。
大多数は、親しかった者たちに会うことを禁止される。
原則として、全員が、犠牲者が味わったのと同じ痛み、苦悩、欠乏を経験させられる。
やがて、悔悟ならびに償いへの欲求が生じると、苦痛は和らぎはじめ、そうした苦しい状況に、自分自身で終止符を打てる可能性が見えてくる。
第二十六条
傲慢に暮らしていた者は、自分が地上にいたときに軽蔑していた者たちが、栄光に包まれ、人々に囲まれ、称賛されて、はるかな高みにいるのを見る。自分は最下層に落とされているのに、である。
偽善者は、光に貫かれて、心の奥に秘めていた考えを全員に暴露される。逃げも隠れもできないのである。
官能に溺れていた者は、あらゆる誘惑、あらゆる欲望にさらされるが、決して満足を得ることができない。
守銭奴だった者は、自分の金がどんどん他人によって使われるのを見るが、それを防ぐすべはない。
エゴイストだった者は、全員に見捨てられることによって、かつて自分が他者に与えていた苦しみを経験するのである。喉が渇いても、誰も水をくれない。腹がすいても、誰も食べ物をくれない。誰も手を差し伸べてくれず、誰も慰めの声をかけてくれない。
彼は、生前、自分のことしか考えなかったので、彼が死んでも、誰も彼のことを思ってくれないし、誰も悲しんでくれないのである。
第二十七条
死後、みずからの過ちの結果としての罪を避けたり、あるいは軽減したりするには、生きているあいだに、できるだけ、それを解消しておく必要がある。
そのためには、充分な反省を経て、その悪事を償うことである。そうすれば、死後に、もっと恐ろしいやり方で償うことを免除される。
過ちを解消する時期が遅れれば遅れるほど、その帰結は、より苦痛に満ちたものとなり、果たすべき償いは、より厳しいものとなる。
第二十八条
死後の霊の境涯は、生前の心境に正確に対応したものとなる。
やがて、新たな転生輪廻の機会を与えられるが、それは、新たな試練を通して償いを果たすためである。
だが、それも、すべて彼の自由意志に任されているため、もし、その機会を充分に生かさなかったとしたら、さらに、次の転生で、今度は、もっと厳しい条件のもとに再度チャレンジすることになる。
したがって、地上生活を通じて、多くの苦しみを経験している者は、「それだけ、自分には償うべき過去の過ちがある」と自覚することが大切である。
また、悪徳を重ね、社会に役立つことをしていないにもかかわらず、表向きは幸福を享受しているように見える人間がいるとすれば、次の転生で高く支払わされることを覚悟しなくてはなるまい。
そうした意味を込めて、イエスは次のように言ったのである。
「苦しむものは幸いである。彼らは慰めを得るであろう」
第二十九条
神の慈悲は無限である。だが、神は一方で極めて厳格でもある。
神が罪人を許すということは、罪を免除するということではない。罪人は、その罪を償わないかぎり、過ちの帰結を引き受けざるを得ない。
神の慈悲が無限であるとは、「神が、善に戻ろうとする罪人に対して常に扉を開いて待っていてくださる。」という意味であり、「本当に悔い改めた者は必ず許してくださる」という意味なのである。
第三十条
罰は一時的なものであり、自由意思に基づく悔悟と償いによって解消されるが、それは、罰であると同時に、また、悪を犯すことによって傷ついた心を癒すための治療でもある。
したがって、罰を受けている霊は、徒刑を科せられた罪人というよりも、むしろ、病院に収容されている病人と見るべきなのである。
この病人たちは、みずからの過ちの結果である病気に苦しみ、また、それを治すためのつらい処置も受けなければならないが、治る希望を失っているわけでは決してない。
そして、思いやりを込めて医者が書いてくれた処方箋に、忠実に従えば従うほど、治る見込みは高くなるのである。
処方箋に従わない場合、医者にできることは何もない。
第三十一条
霊は、地上に転生してくると、霊界で決意してきた解決手段を実行して、過去世で集積した悪を償おうとする。
したがって、一見、存在理由がないように思われる、種々の悲惨や不遇などにも、本当は、それなりの、しっかりした理由があるということを知らなければならない。それらは過去の帰結であって、われわれが進化するためには必要不可欠なのである。
第三十二条
「神が、人間を、決して間違いを犯さないように完璧に創ってくだされば、人間は、未熟さに由来する不幸を経験しなくても済んだのに」と思う人もいるかもしれない。神が、知識においても精神性においても完璧な人間を創ろうと思えば、当然、そうできたはずである。だが、そうはなさらなかった。というのも、叡智に満ちた神は、進化の法則にすべてを委ねることを選ばれたからである。
人間が不完全であり、したがって、程度の差はあれ、必ず不幸に見舞われるということは事実であって、認めざるを得ない。すでに、そうなっているからである。
そのことをもって、神は善でもなく公正でもないと考えるとすれば、それは神への反逆となるだろう。
たとえば、もし、あらかじめ神から特権を与えられており、他の人間が苦労しなければ手に入らない幸福、あるいは、他の人間がどんな苦労をしても決して手に入れられない幸福を、何の努力もなしに与えられるような人間がいるとすれば、それは、神が公正さを欠くということにもなるだろう。
しかし、霊は絶対的な公平さのもとに創られたのである。あらゆる霊は同じように創られた。最初に創られたとき、その能力には差がまったくなかった。例外的な扱いを受けた霊はただの一人も存在しなかったのである。
目的に達した霊は、必ず、他の霊と同様に、未熟な状態から試練の段階を経て徐々に向上していった霊なのである。
以上のように考えてみれば、行動の自由が全員に与えられていることになり、これ以上、公平なことはない。
幸福への道は全員に開かれているのである。
目的も、全員同じである。目的に達するための条件も、全員同じである。そして、そのための決まりも、全員の意識の中に、しっかりと刻み込まれている。
神は、努力の結果として、全員に公平に幸福を与えてくださるのであって、特別措置によって、限られた者にだけ幸福を与えるわけではない。
各人は、努力することによりおいて、また、努力しないことにおいて自由である。
一生懸命、努力する者は、早く報いられる。途中で迷ったり、道草を食ったりする者は、当然、目的地に着くのが遅くなる。
しかし、それも、すべて自分の責任である。
善を行うのも、悪を行うのも、各人の自由に任されている。まったく自由であって、どちらかの方向に強制的に向かわさせられるということはない。
第三十三条
未熟な霊を待ち受ける苦しみは、その種類も程度もさまざまであるが、死後の運命を決める規則は、次の三つの原理に要約される。
①苦しみは未熟さから生じる。
②あらゆる未熟さは、そして、それに由来する、あらゆる過ちは、それ自体に罰を内包している。不摂生をすれば病気になるように、また、無為が必ず退屈につながるように、未熟さは、必然的に、過ち、そして罰という帰結を生み出す。したがって、それぞれの過ち、また、個人ごとに、特別の罰を考え出す必要はない。
③人間は、誰でも、意志の力によって、その未熟さから脱することができ、したがって、未熟さの当然の帰結としての悪を免れることはできる。そして、そのことによって幸福になれるということが保証されている。
以上が、神の正義による法である。
すなわち、霊界においても、地上においても、各人の努力に応じた結果が与えられるということである。
アラン・カルデックの「霊との対話」天国と地獄 P336~P339
第四章 魂は平等なのに、なぜ天使と悪魔が存在するのか?
悪魔とは何者か?
霊実在論によれば、天使も悪魔も別々の存在ではない。知的生命体は、すべて同じ創られ方をしたのである。それらの生命体は肉体に宿り、人間として、地球や他の惑星に住むのである。肉体から分離したあとは、霊となって、霊界に還って生活する。
神は彼らを向上し得る存在として創造した。完成と、その完成に必然的に伴う幸福が、彼らの目標であり、神は彼らを完全なものとしては創らなかった。それぞれの努力を通じて完成を目指すべきだとしたのである。それが各人の手柄となるからである。
創造された瞬間から、彼らは、地上での生活を通じて、あるいは、霊界での生活を通じて、向上を目指している。進化の極致に至ると、彼らは、至純の霊、つまり、天使となる。
したがって、知的な意味における”胎児”の状態から天使に至るまで、途切れることのない存在の連鎖があり、各々の鎖の環は、進化の階梯の一つひとつの段階をなしている。だから、高い段階、低い段階、また、中くらいの段階など、道徳的、知的な発達に応じた、あらゆるレヴェルの霊が存在することになる。ということは、あらゆる段階の、よき者たち、悪しき者たち、知的な者たち、無知な者たちが存在するということになるだろう。
低い段階にいる者たちの中には、悪への傾向性が著しく強くて、悪をなすことに喜びを感じる者たちもいる。実は、彼らこそが、いわゆる悪魔と呼び慣(なら)わされている存在なのである。実際、彼らは、悪魔が備えている、あらゆる悪しき性質を備えている。
霊実在論から彼らを悪魔と呼ばないのは、悪魔と呼んでしまうと、それは、人間から完全に切り離された、本質的に邪悪な、永遠に悪に運命づけられた、善に向かうことのまったくできない存在と見なされる危険性があるからである。
教会の教義によれば、「悪魔は、もと、よき存在として創られたのだが、不服従によって、悪しき存在となった」とされる。つまり、悪魔とは堕天使のことである。彼らは、神によって、存在の階梯の上部に置かれたのだが、そこから下のほうへと降りていったのである。そして、「いったん悪魔となった者は、二度と再びそこから抜け出すことができない」とされる。
霊実在論によれば、悪魔とは、不完全な霊であって、向上の余地を残している。彼らは階梯の下部にいるが、そこから上っていくことは可能なのである。
無頓着、怠慢、頑固、傲慢、そして、悪しき意志ゆえに、霊界の下部にいる者たちは、そのことによって苦しみを得ている。だが、悪をなす習慣があるために、そこから出ることは難しい。
しかし、やがて、そうした苦痛に満ちた生き方がいやになるときが、いつか来る。そのときになって、彼らは、みずからの生き方を善霊の生き方と比較し、「本当は、自分も、よい生き方をしたかったのだ」と悟る。
そして、向上への道へと入るのだが、それも、みずからの意志によってそうするのであって、誰かに強制されてそうするのではない。彼らは、もともと進化すべく創られているために進化を目指すのであって、みずからの意志に反し、強制されて進化するのではない。
神は、常に進化の手段を彼らに提供しているが、それを使うかどうかは彼らの自由に任せている。もし進化が押しつけられたものだとしたら、何の手柄にもならない。神は、彼ら自身の努力によって手柄を立てることを望んでいるのである。
神は、ある者たちだけを特別に選んで最上階に置くことはしない。その境涯は、誰に対しても開かれているのである。
ただし、努力なしに、そこに到達することはできない。最上階にいる天使たちといえども、他の者たちと共通の道を通って、徐々に上層へと上っていったのである。
「アラン・カルデックの霊との対話 天国と地獄」 P333~P336
天使とは何者か?
天使が持っているとされる特質をすべて備えている存在があることは、疑いのない事実であろう。霊界通信は、この点に関して、あらゆる民族が持っていた信仰を裏付けている。だが、それだけにとどまらず、同時に、そうした存在の本性と始原についても教えてくれるのである。
魂、あるいは霊は、最初に創られたときは、単純で無知だった。つまり、何の知識もなく、善と悪の区別ができなかったのである。しかし、みずからに欠けているものは、すべて獲得できるようにも創られていた。
すべての魂にとって、完成が目標だった。それぞれが、自由意志に従い、努力に応じて、完成を目指していった。すべての魂が、同じだけの距離を踏破し、同じだけの仕事をする必要があった。
神は、すべての魂をまったく公平に扱い、いっさいのえこひいきをしなかった。
というのも、魂たちは、すべて神の子供だったからである。
神は子供たちに言った。
「さあ、この法に従って生きなさい。この法だけが、あなたがたを目的地に導くことができる。この法にかなうものは、すべて善であり、この法にそむくものは、すべて悪である。この法に従うのも、そむくのも、あなた方の自由であり、そのようにして、あなたがたがは自分の運命をかたちづくるのだ」
ゆえに、悪を作り出したのは神ではない。神は善のために法を創った。そして、その法にそむいて悪を作り出したのは人間なのである。もし、人間が忠実にその法を守ったならば、決して善の道から外れることはなかったのである。
しかし、その生存の初期において、魂は、幼児と同じく、経験を欠いていた。だからこそ、失敗しやすかったのである。
神は、魂に、経験を与えなかったが、経験を得る能力は与えた。魂が悪の道へ歩を進めるごとに、それは霊的進化の遅れとなった。そして、魂は、そのたびごとに報いを受け、避けなければならないことが何であるかを学んだ。そのようにして、魂は、徐々に進化、発展し、霊的な階層を上っていったのである。そして、ついには、至純の霊、つまり、天使の段階に至ったわけである。
したがって、天使とは、人間が、もともと持っていた可能性を開花させて、ついに完成の域に達した姿、約束されていた至福の境地に至った姿なのである。
この最終的な境地に至るまでのあいだに、人間は、それぞれの進化の段階に応じた幸福を享受するのだが、この幸福は、何もせずに手に入れることはできない。この幸福は、神から与えられた役割を果たす中で、初めて味わうことが可能となるのである。というのも、そうした役割は、進化のための手段であるからなのだ。
人間は、地上での生活だけに縛りつけられているだけではない。空間中に繰り広げられる無数の世界に属するのである。すでに姿を消した世界に属していたこともあるし、これから現れる世界に属することもあるだろう。
神は、永遠の時間の中で創造してきたし、これからも創造し続けるだろう。
それゆえ、地球が存在するはるか以前から、地球以外の惑星でも、われわれと同じく、数多くの霊が、肉体に宿って修行をしていたのである。そして、比較的新しく生まれたわれわれが現在たどっているのと同じ行程を踏破し、われわれが神の手によって生まれるよりもはるか前に、すでに目的に達していたのである。
それは、地球上のわれわれにしてみれば、永遠の昔から、至純の霊、つまり天使たちが存在していたということになる。つまり、彼らが人間だったころの時間は無限の彼方に退いているので、宇宙開闢(かいびゃく)のころから天使として存在しているように、われわれには思われるのである。
神が、かつて仕事をしないことはなかった。みずからの命令を与え、宇宙のあらゆる領域を方向付けるために、常に、信頼のおける、智慧にあふれた至純の霊人たちを従えていたのである。彼らの補佐を受けて、惑星の運営から、最も些細なことに至るまで、実行してきたのである。
したがって、さまざまな職務を免除された、特権的な存在を作る必要などなかった。すべての霊たちが、古い者も新しい者も、努力に応じて、各々の境涯を勝ち取ってきたのである。全員が、みずからがあげた成果に応じて進化してきているわけである。
そのようにして、神の至高の正義が実現されてきたのだと言えよう。
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